チングルマ


 旭岳に向けて歩き出すとすぐにチングルマの大きな群落に出会う。ちょうど旭岳の頂から朝陽が当たりだす時間で無数のチングルマの白い花びらと黄金色の蕊が輝いていた。ひしめくように集まって咲いている姿は幼子が遊び戯れる様子を連想させる。年によっては、すでに花は終わり亜麻色の綿毛が輝いていたりする。その姿は夏がもうすぐ終わり、急ぎ足で秋がやってきている一抹の寂しさを感じさせる。
 カムイミンタラ、神遊びの庭の長い縦走のスタートで期待と不安が心を占めている単独行者に「今からいっぱい美しくて歓びに満ちたことが待っているから、頑張って歩くんだ!」と語りかけてくれるように思えるのだった。
 また、北アルプス太郎平から黒部五郎岳、三俣蓮華岳を経て雲ノ平へ歩いたとき、山行最終日、雲ノ平を去る木道を出発して、もう少し先で森林に入る手前でチングルマの小さな群落に出会った。すでに綿毛になったチングルマは夜露を纏い、朝陽に白く輝いていた。山行を終えるその朝、歩いていて出会った花たち、黒部五郎岳のカールの中の静かな風景、ライチョウの親子、笠ヶ岳の秀麗な姿、雲ノ平のメルヘンチックな風景などなど・・・。そんなことを反芻しながら、同時に山行を終える一抹の寂しさを感じながら歩いている私にもう一つ贈り物をくれたのだった。ふと左手を見ると、カールから頂きに雲をわだかまらせた黒部五郎岳がたおやかに佇んでいた。
 チングルマは「稚児車」が転じてそう呼ばれるようになったと言う。確かにチングルマと言う方がチゴグルマと言うより舌の滑りはいい。それにどこかしら愛嬌も感じられる。
 ハクサンイチゲやアオノツガザクラ、イブキジャコウソウ等々の高山植物の名前は、明らかに明治以降に付けられたもの。しかし、チングルマは違うのではないか。昔から登山ではない何かしらの目的で山にやってきた人たちの間で呼ばれてきた名だと推測される。

 チングルマは高山や北の山では当たり前のように出会う植物である。しかし、山行の折に触れ登山者に語り掛けてくる。そんなある意味で、さりげなく寄り添ってくれる存在なのだと私は感じている。

プリムラ

サクラソウを求めて


 

  全く雲がない空はあまり山の写真では歓迎されない。写真を撮るとき、雲が山の姿を引き立てる

 ので、今日の由布岳はあまり宜しくないだろう。そんなことを思いながら駐車場に着いた。

  無料の駐車場はいっぱいで有料駐車場にまで車が溢れていた。近くでは十数人ほどの団体が準備

 体操を終えて、エイエイオゥと気勢を上げて出発していった。登る前にエイエイオゥはいかがなものかと思う。我々はのんびりと倉木山なのだ、と内心なめていた。遊歩道に向けて由布岳を右手に見て歩き出す。

  プリムラ(Primula)山の会と私が名前を付けさせてもらったのは、エゾコザクラの群落を大雪山からトムラウシへの縦走路で見かけ、魅了されたことによる。プリムラはサクラソウ属の総称である。ハクサンコザクラも中部山岳に出かければ出会えるのだが、ミチノクコザクラやヒナザクラ、ユキワリソウやユキワリコザクラなど未だにまみえていない花もある。昨年、南アルプス

 北沢峠のバス停近くでクリンソウの群落を見かけたが、これもプリムラである。英彦山奉幣殿前の池の中にクリンソウが植えられ咲いているのを見かけたときは、少しばかりがっかりした。いずれも美しさと素朴さを併せ持つことに魅かれたから、「プリムラに出会える山登りをしましょう」という私の勝手な願いと呼びかけから付けた会の名前なのである。 

 

実は、由布岳の登山口近くにサクラソウの群落があることを恥ずかしながら、忘れてしまってい た。十数年前務めていた学校の新入生歓迎バス遠足で城島高原に出かけた折、由布岳正面登山口の近くで車窓からサクラソウの群落を見かけたことがあった。そのときは、よし!今度花の季節に来てみようと思ったのだが、毎年この時期、私の頭の中はカタクリでいっぱいになるのでサクラソウ

 のことはいつの間にか消えてしまっていた。ところが、大分の山のガイドブックの由布岳の案内でサクラソウの名前を見かけてサクラソウの記憶が蘇った次第である。

  林道であるが轍もなく、空気が澄んでいて気持ちがいい。木々の間から由布岳が高く聳えている。

 あちらの山道はにぎやかだろうが、こちらは静かでのんびりしている。雲ひとつない青空にカラマツの若葉が映えて、春を感じさせる。早速ヤマエンゴサクとツボスミレにお目にかかる。さらに歩くとタチツボスミレ、エイザンスミレとスミレの仲間に出会う。ヒトリシズカを見かけた爺さんならぬGさんはカメラに収めている。そして、林道の脇の急斜面にサクラソウの小さな群落があるではないか。まだ早いのか花の数は少ないが、紛れもなくサクラソウである。少しばかり感激の対面であった。 


同行の四人が思い思いの写真を撮りながらなので、進まない。少し不安になったのは、倉木岳の方には進んでいないことだった。林道は東に延びているが、倉木岳は西の方にある。四人で相談していると、気が付いた。私がネットで手に入れた大雑把な地図は倉木岳の近くだけのものだったの だ。車を停めた駐車場は、地図の倉木岳登山口の駐車場とは別物だったのだ。二箇所遊歩道への分岐があった。そこを行くべきだったのだ。早速分岐に戻り遊歩道に入る。あまり歩かれていない道だが、確実に倉木岳の方へ進むので一安心。やがてカエデやナラの若葉が美しい平たい所に出る。

 ヤマザクラが咲いている。ソメイヨシノの花とは異なり、どこか和める雰囲気を持っている。そして、その一角にやや大きいサクラソウの群落があった。やおら四人はカメラを取り出し映し出す。

 思い思いのアングルで撮っていた。これで今日の目的は完了した、そんな気さえ起きてくる。ここは人の目に触れないシークレットガーデンだ、秘密にしておこうと一人思っていたのだが、こうやってプリムラだよりに書いてしまっている。他言無用でお願いします。

  さらに歩いてゆくと、ぽっかりと開けた景色が突然広がる。牧場だ。金網の柵がしてあるが開閉が出来るようになっている。正に牧歌的な風景の上に由布岳が聳えているのを背景に歩いてゆくと、車道に出て倉木岳の登山口があった。

  ところどころにミツバツツジが咲いていて、陽光に輝くピンクが美しい。その先に分岐があって、左は急坂を登り、右は山腹を巻くルートになっている。迷わず右手に歩き出す。ちょうど良い、きつさをあまり感じない傾斜の道をどんどん進む。小一時間たったころからキスミレがぽつぽつと咲いているのを見かけるようになる。このあたりから急になり、森林限界を抜けたように展望が広がりだす。由布岳が双耳峰の趣をいっそう際立たせている。一気に登りきると真ん中に岩が積み重なった狭い頂上に着く。隅に木陰があって、やっと四人が座ることが出来た。

  この日、平地では三十度近くまで気温が上がったというが、山では日差しは強かったものの風がからりとしていて、あまり暑さは感じなかった。樹間から見える由布岳が秀逸である。倉木山は由布岳を眺める山でもあると思った。 


帰りはもと来た道を戻るのか、登山口から車道を戻るのか迷ったあげく、車道をとった。理由はまだ歩いていないからである。少し歩いていると、野焼きの跡に草の芽が出ている中に一面白い花が咲いている。近寄ってみると、イチリンソウだった。小さな谷間になっていて、水分が豊富なところを好むのだろう、咲き乱れていた。その次には、小さな崖になっているところには濃い紫の花のエヒメアヤメが咲いていた。エヒメのエは何かわからないが、ヒメは姫、つまり小さいを意味するのだろう。おそらく漢字で表記すると愛媛県の「愛媛」ではないのか。そんなことを考えながら次々に顔を出すこの花を楽しむことが出来た。エヒメアヤメにイチリンソウ、ヤマエンゴサクを堪能することが出来た下山ルートだった。

  


この日、もし車で倉木山の駐車場まで乗り付けて登ったならば、サクラソウにも、イチリンソウにも、エヒメアヤメにも出会うことはなかった。結果としてだが、充実した山だったといえるのではないか。それは人との出会いにも似ている。人生、回り道を多少歩いたからといって、全く無駄だとは言えないのだ。そんな教訓じみたことを無理に言い訳にしながら帰途に付いた。 

水の町

種田山頭火をめぐる随想

 

分け入っても分け入っても青い山                                     山頭火

  四月八日朝六時、島原の実家からアーケード街を南へ歩く。シャッター街になりつつあるアーケード街は昼間も人影疎らだが、早朝ならなおさら誰一人歩いていない。その薄暗いアーケード街の南の端の随分前に潰れてしまった映画館に小﨑侃さんの島原に沸く水でできた白土湖を描いた版画のポスターが貼ってある。ここには以前、山頭火の「こんなにうまい水があふれている」という句に普賢岳と島原城を描いたポスターが貼ってあった。

  山頭火は1932(S7)年九州北西部を行乞している。島原には二月十六日から六日ほど滞在している。何故六日かというと、酒を飲みすぎてお金を使い果たてしまい、柳川の援助者に無心していたからである。 

アーケード街から北へ歩くと、大手(門跡)から堀端の一つ下の旧商店街へ。造り酒屋や「青の理髪館」といった、おそらく山頭火が訪れた当時の雰囲気を残した街並みがある。山頭火の姿を想像してみる。

  山頭火といえば、破れ編み笠にぼろ法衣、うしろすがたのしぐれる放浪の俳人、幾多の苦しみ悲しみを胸に流転した俳人というイメージが湧く。「最初の不幸は母の自殺、第二の不幸は酒癖、第三の不幸は結婚、そして父になったこと」と語っている。おそらくは山頭火は繊細で柔らかすぎる神経の少年であったと思われる。井戸に身を投げた母の遺体を見た十一歳の少年の心の傷は本当に深かったと想像に難くない。この事件以後、大地主の家系に生まれた少年の人生は大きく変わっていった。1907(M40)年に酒造業をはじめ、家庭を持つが、やがて経営に失敗。禅門に入り、流転行乞の日々がはじまる。旅の途中で数多くの句を残している。

 「うしろすがたのしぐれてゆくか」

  「旅で果てるもほんに秋の空」

 「おちついて死ねそうな草枯るる」

 

 

城の下の道を歩きながら山頭火のことを考える。島原鉄道島原駅から城に至る大きな道路の脇に1mほどの標識がある。「竜馬と海舟 長崎へゆく」「吉田松陰この地に泊まる 平戸屋」などと記した案内の中に吉井勇や斉藤茂吉、河東碧梧桐の歌や句が記してある。島原大変の際に津波が城の石垣まで押し寄せたことを記したものもある。切支丹弾圧、島原・天草の乱、三十五年前の雲仙普賢岳の噴火、・・・。幾たびか歴史に顔を出す島原はあまり明るいものはない。

  さて、山頭火。その標識の中に「解らない言葉の中を通る」「よい山よい海よい人十分十分」などの句が記してある。また、「水の豊富なのはうれしいそしてうまい 栓をひねったままにしていつも溢れて流れているそこにもここにも」と日記を記したものもある。

  島原のきつい方言で接してくる人々の人情とあふれ出る水のおいしさに魅せられたことは間違いないと思うのだが、私には、彼の心の底に「水」へのあこがれがあったように思われるのである。 

島原ではふぐ(この地では「がんば」と呼ぶ)の湯引きを食したと思われる。また、二月には蟹(ここでは「がね」)もおいしい時期である。大好きな酒もすすみ、持ち金が尽きてしまったに

 違いない。「行乞」と称しながら、援助してくれる金持ちがいたことで、欲望に負けてしまったことは想像される。

  しかし、そんな旅の中で山頭火は自らが濁っていくことを自覚していたのではなかろうか。そして、心の底から心身が浄化されることを望んでいたのではないだろうか。禅門に入りながら荒んでゆく・・・。私の思いつきのような推測だが、旅の各地で、おそらく島原でも山頭火は水に 出会ったのではないだろうか。水こそが、水の流れこそが浄化に通じることに気がついたのではないだろうか。 

昨日七日、一時的に冬型の気圧配置になり、冷たい雨が降った。堀端の道を歩いているとシャクヤクの花が咲いていたが、振り返り仰ぎ見ると、雲仙普賢岳が白く化粧していた。山頭火が滞在していたときの普賢岳は雪化粧していただろうか。もちろん山頭火は気がついたからといって流転の生活をやめるわけではない。

  しかし、「行乞記」において『行乞流転のはかなさであり独善弧調のわびしさである。(略)昭和八年九月二日、私は故郷のほとりに私の其中庵を見つけてそこに移り住むことが出来たのである。(略)これからは水のやうな句が多いやうに念じている。淡如水ーそれが私の境涯でなければならないから』と記している。

  その後も行乞の日々は続いた。1935(S10)年、カルモチンを多量に服用して自殺を図るが、未遂に終わる。行乞流転の日々が再び続く。

  1938(S13)年、其中庵倒壊。1939(S14)年の末、松山に終の棲家となる「一草庵」に住み始める。 

 

翌年四月、一大句集「草木塔」を刊行。その中の一句に「濁れる水の流れつつ澄む」がある。

 同年十月十一日、心臓麻痺にて死去。彼は湧き出る水の清らかな流れにあこがれた一生を歩んだのではなかろうか。清く澄んだ水の流れは彼の抱えた悲しみも苦しみも、忘れたい記憶も洗い流してくれた。

 飾ることなく正直に生きた人だったと思う。この句は、そんな水の境涯になれたことを詠んだ句だと思うのである。

  島原での六日間、水は山頭火を癒してくれただろうか。

  そんなことを考えながら、傍らの湧く水を柄杓で掬って口に含み、戻ることにした。 

ヤマシャクヤク

  木々の葉が萌える森の姿が私の運転を危うくさせていた。
男池への道のりは、森の美しさに気を取られ運転がおろそかになりがちだ。特に春の新緑が萌える森、赤や黄色に色づいた秋の森は危険を孕んでいるのだ。
もう二十年以上前、この時期の男池にフィルムカメラを携えてせっせと訪れていた。久しぶりのこの時期の森はどのような姿を見せてくれるのか、胸が踊った。
今回はデジタルの一眼レフと14~55ミリのズームレンズと50ミリの単眼、それに90ミリのマクロレンズを用意してきた。それに接写用の三脚、大豆を入れたスタッフバッグ。大豆は三脚では出来ないローアングルで撮るためのものだ。
川の流れに沿った遊歩道を少し歩く。見上げると、もう木々は葉を広げ、燃えたつ新緑が頭上を被い、淡い緑の影を落としている。もうバイケイソウが丈を伸ばし林立している。その葉の描く曲線が大らかで滑らかなところが私の意欲を搔き立て、シャッターを押させる。その脇でこのあたりでは見たことがなかったヤマシャクヤクが花を咲かせている。庭先で咲くシャクヤクとは比べものにならないほど飾り気がないが、逆に、その清楚さに魅かれる。庭先ではなく、自然の中にあることが一層の魅力になっているのだ。
いつかの大雨で土砂が流されてこのあたり一帯に根付いたのだと思われる。花は終わってしまったアズマイチゲやユキワリイチゲの葉も見ることが出来るが、以前と比べるとはるかに少なくなってしまった。植物の分布は洪水などで一変してしまうのだろう。永い年月をかけて群落を拡げてきた植物たちは、毎年懸命に命を繋ぐために種子をそれぞれの戦略で拡散し、同時に根を拡げている。それは、洪水や土砂崩れなどに襲われても根絶やしにならないためだろう。そんなことを考えながら、歩いていると、突然立ち入り禁止の看板が立てられていた。この先は土砂崩れのため歩けないそうだ。
イチリンソウが川岸で風にゆっくりと揺れていた。ゆったりとした川のせせらぎが聞こえていたが、突然、大音量でややけたたましくもあるが十分に美しい歌声でミソサザイが啼きだした。姿は見えないが、あの可愛らしい小さい褐色の姿を思い浮かべ、柔らかい心持にしてくれる。
坂を登っていると、ぽつりぽつりとユキザサの姿が見られるようになった。まだ先端の花までは開いていず、全体に小さい印象を受ける。ユキザサにチゴユリの写真を以前撮っていたのを思い出す。ほの暗い森の中でその姿を浮かび上がらせるチゴユリの写真。名前の通りに小さなこの花に魅せられていた。さて今日はどんな姿を観ることが出来るだろう、どんな写真を撮ることが出来るだろう。
道の脇をキョロキョロしながら花を探す。すると、苔むした大きな岩の上に何やら小さな植物が群れているのを見つけた。そばに寄ると、ユキザサとチゴユリがしっかり花を付けていた。下の岩に足を掛け、大きな岩に身体を貼り付けるようにして写真を撮った。以前の写真とは対照的に明るい森の中のチゴユリの姿。そして、ユキザサは木々の萌える若葉の翳で淡い緑に染まっている。よしとするかと一人ごちながら岩から降りる。
もう少し歩いてみようと花を探していると、以前は二つにルートは分かれていたあたりで、右の道が崩れていることに気が付いた。そこから下が一変してしまっていた。右のルートの脇にヤマルリソウやハナネコノメ、ヒトリシズカが咲いてたのになぁと少し残念な思いをしたので、戻ることにした。
ジロボウエンゴサクの花はあちこちにひっそりと咲いていた。ヤマエンゴサクは男池のすぐそばに小さな群落を作っていたが、いつの間にか消えてしまった。「ジロボウ」とはタロウがスミレを指し、それに次ぐということから付けられたらしい。同じケシ科のムラサキケマンほどうるさくないが、ヤマエンゴサクほど美しくない、どことなく哀れを感じてシャッターを押した。
写真を撮っていると時間が速く流れるようだ、気が付くと昼を回っていた。ヒトリシズカやハルリンドウを探しながら男池の近くに戻って昼ご飯を食べた。そして、用意してきた食後のコーヒーを淹れようと、カップにドリッパーをのせた瞬間、気が付いた。フィルターペーパーを忘れた!
またやってしまった。用意してきたボリビアの豆の匂いだけ楽しんで、そそくさと帰ってきた。 


オカトラノオ

夏の草地。むせ返るような暑さの中を歩いていると、穂先に白い花がいくつも集まったオカトラノオが数株も寄って咲き、緑の背景に明るい景観を作っている。暑さの中を歩いてきた者に白い花は清涼感を与え、一息つかせるようでもある。
そんなオカトラノオとの出会いを素直に写真に納めるということも、確かに一つの写真のあり方だと、あの日考えた。実際に、標準の50ミリレンズを付けたカメラを構えファインダーを覗き込むのだが、うまく収まらない。あっちこっちに向いた花穂が写真にならないのだった。
トラオノといえば、ハルトラノオが思い浮かぶ。春先に真っ先に咲くので、花の写真を撮る者にとっては、冬の間に封印してきた写真を再開するのに格好の被写体になるのだと思う。ハルトラノオはタデ科の植物。このオカトラノオに近い種類にヌマトラノオがあるらしいが、私はまだ出会っていない。ヌマトラノオとオカトラノオはサクラソウ科、つまりプリムラなのである。今こうして振り返ってみると、親近感が湧いてくる。、
 「クカリの丘」に近いこの草地から望む湧蓋山は裾野を引き絞ったように立ち上がって、丸い頂に続いている。その頂に雲がかかり、この草地がさぁっと影に包まれた。
昼たけなわになり、一雨くるかも知れないと思わせる。しかし、暑さにあえいでいた生き物たちにとっては、恵みの影だった。
気を取り直しオカトラノオを見てみると、穂の付け根の方から咲き上がっている。穂先に近い方はまだ蕾で先に近いほど蕾も小さくなる。左半分は開いた花の連続で、右半分は蕾の連続。造形の妙というか、花をより長く咲かせるための戦略というべきか、何とも惹かれるものがあった。
明るい夏の草地に咲き乱れるオカトラノオの生態とは別の写真となってしまった。
写真を撮り終える頃、空は雲に覆われ、低い雷鳴が聞こえ始めていた。そそくさと片づけたカメラや三脚を背負うと、私は車に向けて歩き始めた。急ぐ私の心には、早く現像してできあがりを確認したいという思いがあった。 


フシグロセンノウ

 盛夏。炎天下の山道を避けて、森の小径をゆっくりと歩いていた。
ブナやナラ、カエデの類の高木がうっそうと葉を茂らせ、せめぎ合いながら森の屋根を作っている。
そんな森の中は、草たちの枝先をほんの少し揺らすだけの風が吹いているだけだ。しかし、それだけでも涼しく感じさせてくれる。
一瞬、斜面に沿って光が入り込んでいる方に目を向け、次いで小径の先に目をやると目が暗さに慣れていないせいで、闇のように感じる。よく見ると、数メートル先で白く揺れている穂先の花はトリアシショウマだ。薄暗い中ではよく目立つ。
さらに少しばかり低くなった、沢に近いあたり、沢と言っても大雨の時だけ水が流れる涸れ沢だが、湿気は十分にある。そこに朱赤色と言えばいいのだろうか、数輪の花がゆっくりと手を招くように揺れている。妖しげに異界に誘っているような花だ。「フシグロセンノウか」と私はつぶやく。
確かにこの花は朱と赤の間の色に見えるが、見る角度によってはもっと深い緋色をしているし、時にもう少し明るい猩々(しょうじょう)緋のようでもある。いずれにしても単純な朱や赤と言った色相ではない。それ故に妖しげで異界に誘っているように感じるのだろうか。
私はゆっくりカメラを据え、闇の中に浮かび上がり妖しく語りかけてくるフシグロセンノウをファインダーに捉えた。 

ユキワリイチゲ

 
  冬の間、カメラとレンズを家で磨くだけだったのが、三月になって、男池の森でこの花が咲き始めているのだと思い、車を飛ばして駆け付ける、そんな春を何度繰り返したことだろう。
 「雪割一華」と漢字で書くのだろうが、フクジュソウと違ってこの花が咲く頃には雪はない。しかし、三月の下旬あたりに名残雪が降り、その中で花を開くようなことはあるのかも知れない。
  いずれにしても、この時期の男池の森の主役だと私は思っている。同じ時期に花をつけるアズマイチゲよりも大輪で、数も多く、花の色に気品さえ感じることが出来るからだ。
話は突拍子もない方に飛ぶのだが、私は高校数学で放物線の頂点ばかりが扱われ、焦点については数学Ⅲの一部でしか扱われないことに不満を感じてきた。衛星放送のパラボラアンテナの受信部に衛星から送られてきた電波が反射して集まるように出来ていることを、多くの高校生は知らない。頂点よりも焦点のほうがものづくりや現象の考察には役立つのだ。
そんな不満を解消するため、パラボラの性質に目を向かせる授業を依然したことがあった。何故電波は一点に集中するのか、授業を始めて、考察をさせると生徒たちはすぐに理由を見つけたのだった。ある生徒曰く「どこで反射しても集まるまで進んだ距離が同じだから」。授業は大成功だった。
さて、キンポウゲ科の花たちはみなパラボラの形をしている。イチリンソウもフクジュソウもウマノアシガタもみんなそうである。それは、パラボラの性質を利用して花に当たった太陽光がシベに集まり熱を持ち、虫たちを集め、そのことで受粉に成功するという戦略を持っているからだと気が付く。さらに、春の妖精といわれるように、他の植物たちが丈を伸ばし花をつける前に花を咲かせ、ちょうど虫たちが行動を始める時期に重なるということも考えられる。
またさらに、花びらそのものが熱を持たないように、白や黄色、淡い紫になっていることにも気が付く。
最早、見事な戦略と言うしかない。それ故に造形的にも美しいのだ。
しかし、残念ながらここ数年、写真のような数輪が近づいて咲いている光景を見たことがない。明らかに男池周辺のユキワリイチゲは個体数を減らしている。私のようにカメラを持って(花や茎を踏まないように細心の注意を払ってはいるが)踏み荒らす人間が増えたからなのか。はたまた、気候変動による大雨で自生していた土地の土が流されたり、地形や地質が変わったりしたからなのか。他の植物の下で生活している夏場の気温が高くなりすぎて、生存できなくなったのか・・・。いろいろ理由は考えられる。
私がユキワリイチゲを目当てに通っていた頃のように足の踏み場がないほど密に花をつける光景を、もう見ることは出来ないのだろうか。 


アズマイチゲ


 
“ON THE STAGE”と名付けたくなるようなアズマイチゲの一枚。
毎年、三月の終わりに男池の近くにスプリングエフェメラルと呼ばれる花を求めてカメラを携えて行っているが、近年出会う回数が減ってきたような気がしている。この写真は、90年代の後半から2003年にかけてまだフィルムカメラを使っていた頃に写真である。
あの頃、アズマイチゲは数多く咲いていたのを覚えている。以前、このPrimuraたよりで、アズマイチゲのことをどこか不遇をかこっていると言うことを書いた。同じ時期に同じキンポウゲ科のユキワリイチゲが華やかに咲いているのと比べると、やや小ぶりの花の花びらが白く清楚で控えめな印象を受けることから、不遇という言葉を使ってしまったのだろう。いつもは二輪、三輪と花が集まった写真を撮ろうとするのだが、この一枚は敢えて一輪にしている。それは控えめな印象を払拭するのが狙いだったかも知れない。
白いドレスを身に纏ったステージの上でスポットライトを浴びて女性歌手か歌っている、もしくは女優が演じているのをイメージしたものだと、今にしてみれば思われる。
レンズはシグマ社の180mmマクロF1.8というやつで、重たくて手に持って撮すことは出来なかった。このレンズ今はアナログカメラと一緒にストッカーに入れられたままになっている。デジタルカメラには使えないので、いつかフィルムを買ってアナログカメラと一緒に使ってみたいと思っている。
最初に書いたようにアナログ時代の写真を見ていると、その頃の自分も思い出してしまう。当時、四〇歳代だった自分は、何を考え、どんな思いを抱えて、毎日生活していたのか、BGMに当時よく聴いていたCDの曲を流しながらあれこれ思い出している。
退職して一つのステージが終わり、新たなステージに入ったこの時期に、撮り貯めて残してきたスライドをのぞき込みながら、自分の過去を振り返ってみるのも、悪くはないと思っている。
それにしても自分でも少々呆れているのだが、膨大な数のスライドが目の前にある。しばらくは時間をかけて振り返ることにしよう。 

ナンバンギセル

平尾台に広がるススキ野原と群羊石の景観はのびやかで明るい。豊前に住んでいた頃は訪れることがなかったが、筑後の住人になって訪ねてみた時の一枚。
無数に生えているススキの根元に寄生しているのがナンバンギセル。ハマウツボ科に分類されている。ママコナはAPG分類で同じ科になったが、こちらはもとからハマウツボ科。私は秋に万年山や天山を訪れた時ススキの根本を探すことにしている。しかし、残念ながら出会うことがない。縁がないのか、それとも環境の変化か何かで数が減っているのか分からないが、ともかく出会うことはない。残念である。
話はそれるが、植物の名前はつけた人の生活感や想像力が表れていて楽しい。「オオイヌノフグリ」は外来種で、もともと日本に自生していたイヌノフグリに似ていたからその名がついた。イヌノフグリは実が犬のふぐりの形に似ていたことからついたのだが、オオイヌノフグリはそのような実はつけない。ただ、私は犬のふぐりを連想した日本人の生活感、観察眼が好きである。
一方、英語圏ではBaby Blue Eyes と呼ぶそうである。アメリカのロングトレイルの紹介で有名な故加藤則芳さんの本に
「(和名が)日本では、どういういわれがあって、こんなひどい名前が付けられたのか知りませんが、・・・略・・・気の毒な花です。・・・略・・・(英語名は)まさに、ぴったりの形容です英語圏の人びとの優しさとセンスのよさに感じいります。」とある。
うーん、そうかなー。英語名はいいとしても、和名のセンスにもユーモアと生活感がにじみ出ているいい名前だと私は思うのだが…。
さて、ナンバンギセル。「南蛮煙管」と漢字で書くが、鎖国していた江戸時代に長崎から伝わった南蛮煙管の形に似ているからついたのだろう。なるほど、確かに似ている。形と例えるものが直結した例と言えるかもしれない。ここにも当時の人たちの生活感と観察眼が表れているのだと思われる。
しかし、私はいにしえの人たちの観察眼はもっと深みがあって、想像を掻き立てる名を付けていることに敬服せざるを得ない。その名は「思い草」。
万葉集にある歌である。
道の邊(べ)の  尾花が下の 思い草 今さらさらに 何をか思はむ 
(詠み人知らず 巻十ー二二七〇)
広い野原に群がって咲く青い小さな花を、赤ん坊の青い瞳に例えるのも確かにセンスがいいと言えるだろう。しかし、ススキの根元でうつむき加減に咲いている小さな花に、思いを抱える人の姿に、それは人生の懊悩かも知れない、かなわぬ恋の悩みかも知れない、そんな人の姿を連想する歌い手をはじめいにしえ人のセンスもまた、素晴らしいと思うのだ。


ウメバチソウ

  今 回も撮影場所はクカリの丘。夏が秋に季節の主役のバトンを渡す頃、草原の草たちは少しばかり茶に色付き、ツリフネソウやコマツナギがまだしぶとく花を付けていたり、ススキの花が風に揺れながら陽光に輝いていたりする。そんな時期にクカリの丘を訪れると、緩やかに波打つ草原の浅い谷間にひっそりというよりこっそりウメバチソウが咲いている。何故か二輪寄り添うように咲いているのが多い。恋人同士にたとえるなら、やっぱりこっそりというべきだと思ったものだった。
  やや傾いた陽光に白梅そっくりの花が輝いている。ファインダーを覗くと、雄しべの先が球状になっている。その様が何とも可愛らしい。
  撮影した頃勤めていた学校の山岳部の生徒たちにウメバチソウなどのスライドの上映を部室に使っていた研修室でしたことがあった。
  ある男子生徒の琴線に触れたのが、このウメバチソウの写真だった。「うぉーっ、うぉーっ」と言った後に、「先生、今度この花が咲く頃、ウメバチソウが咲く頃に連れて行って下さい」と彼は言ったが、実現することなく、彼は卒業していった。
  思い返せば、随分のんびりした部活動だった。体を動かす練習をした後は、部員が自然に興味を持つようなことをしていたのだ。ある意味幸せな生徒たちだったし、私にとっても幸せな教師生活を送っていた時期だった。
  花との出会いや花を巡る思いでを振り返ると、その折々の心模様や歩んでいた道筋がまざまざと蘇ることがある。
 そんなことができる時間を、やっと持つことができたようだ。